[第五週]


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[Monday Mar. 7, 2005] --- A.M.5:30起床 ---

**  とうとう、第五週目に突入。論文書きも、今週がヤマ場である。というか、もうそろそろ終わらせないと。。飲み会の後帰る事が出来なかった先輩を泊めているのにも関わらず、朝っぱらから起きているのは、この際気にしない事にする。

**  何だかもう、異常に眠い。ナンなんだ。と、思ってよく考えてみると。昨夜大阪から京都に帰ってきて、シャワーを浴びて出たのが1時半過ぎ。寝たのは2時という所か。んで、起きたのが…あ。うん。
まぁ、無理ですね。火を見るより明らかに。論を待たないほどに。どうも最近、飲み会などで生活リズムの時間は見た目崩れないのだが、睡眠がそのまま削られている様で嘆かわしい限りである。今日はかなり早めに、お疲れ様でした。






[Tuesday Mar. 8, 2005] --- A.M.6:30起床 ---

**  昨夜はよんどころない事情で、早く帰ったのにも関わらず寝付いたのは結局午前1時前であった。さすがに前日の睡眠時間が全く足りてないので、いつも通りの時間には目が覚めなかったが、にしても。。。まぁ、いつも通り研究室の椅子の上で補うことにして、起床。若干気分的にノリがイマイチだが、自分自身を宥め賺しつつ、ぼちぼちやってく事にする。

**  はぁ。。。解決してよかった。。けれど今は素直に喜べないので、歓喜の渦に身を任せるのは後に回すことにして、メモだけをここに残しておく所存である。ともあれ、shinyさんどうも有難うございました。






[Wednesday Mar. 9, 2005] --- A.M.5:20起床 ---

**  人生において、平穏な日常が一瞬のうちに崩壊しとんでもない災厄に見舞われるという事態は、そう多くあって欲しくは無いが、出逢わずに生涯を終えるのもまた難しい話である。昨夜、それを証明するかの如く、突如としてわが身に災いが降りかかった。
夕食は最近家で取ることが多いのだが、昨夜も19時前に帰宅し、先に入浴を済ませた後で鍋焼きうどんなどを食していた。帰り路にスーパーに立ち寄って、漬物などを買ってきていたので、それもサイドメニューに加える。一通り食べ終わって、ふと小鉢の中に漬物に入っていた唐辛子が実の丸ごと残っているのに気付いた。
まぁ、この辺りから明敏な読者におかれては先の展開が予想される事であろう。
はい、その通りです。
大体、漬物にあえられている唐辛子と言うのは辛味が抜けている事が多い。と、自分の経験的には思っている。その経験則を今回も適用し、一抹の不安を拭い去る事が出来なかったものの、件の唐辛子をほおばった。
その刹那、私は自分の選択が、経験が否定され、例外処理を余儀なくされる事を身をもって知った。
唐辛子の中には、当然であるが種が満載である。ちなみに、この唐辛子の種は熱を加えると焦げやすくまた辛いので、例えばパスタを作る時に投入する際も、乾燥唐辛子などにおいては種を取ってから調理するのが一般的である。この、辛い辛い唐辛子を、がりりと噛んだわけである。この種を噛んだ瞬間に激しく脳の中で危険信号が飛び交い、吐き出したのであるが、時既に遅かった。今日のその時まで、あと10秒。
一瞬のタネタネ感(がりりと噛んだ感じ)の後、激烈な刺激が舌を焼く。というか口蓋全体に地獄が体現された。たちまち汗だく涙まみれになってのた打ち回る。
どうしよどうしよとりあえずやわらげねばなにかなかったかそうだれいぞうこにあれが
圧倒的な身体的危機に際してめまぐるしく働く脳細胞が思い出したのは、買い置きしてあったシュークリームだった。。。まぁ、一応舌触り滑らかで、刺激物とは対極にあるものであるが。。。
ともかく、身を翻しシュークリームをげっとして、かっこむ。予想された通り、多少は、一瞬は刺激が和らぐ。しかし、所詮焼け石に水である。危機から全く開放されなかった脳細胞が次に出した解決策は、これも買い置きしてあったミニパック牛乳である。ちなみに、MEGMILKである。
これは、効いた。昔からカレーを食べる時には牛乳、と決まっているが(ですよね)、あれは辛味を中和してくれるからである。まさにその緩衝機能を存分に発揮してくれて、一人また一人と口腔を苛む焔獄の悪魔は去っていった。
ここにおいて、牛乳がMEGMILKであったという事実は、看過できない。たとえ数年(いつだったか)前にとんでもない不祥事を起こした某乳製品会社の、リニューアルというか前の会社と分かる要素を殆ど全て取っ払った、ある意味で人心を欺こうとしているのではないか、と穿った見方をしたくなる製品であったとしても。
MEGMILKは、低音殺菌消毒だったか何だかで、長期保存が可能な牛乳である。このため、リットルパックの牛乳など買っても使い切れない層の人間にとっては、なかなか有難いものである。小さなパックを幾つか買い置きしておけば、数ヶ月は持つし。
まぁ、それでも偶々買い置きが残っていたのは不幸中の幸いであった。ありがとう、自分。
と言う次第で、非常にスリリングな、というかぐったり帰宅した後にさらに追い討ちをかけるような事件の後、泥のように眠る24歳男性の姿があったと言う事である。合掌。
しかしまぁ、よくもこんなくだらないネタでこれだけのスペースを割いたものである。やれやれ。。






[Thursday Mar. 10, 2005] --- A.M.4:50起床 ---

**  さてさて。。あれ?もう10日ですか?て事は、”今週”のリミットまでもう後2日くらいしかないって事ですか?
えぇーー。ありえなーぃ。
と、女子高生を気取ってもしょうがないので、てけてけやって行くしかないのであるが。。
昨日の図の問題も、結局Illustratorを駆使する事で解決。O木さんに感謝多謝である。しかし、なんでこんな、四角の中に斜め線を入れるとかいう簡単な作業にこれだけの労力を費やさねばならないのか…Adobeさん、ちょっと考えた方が良いのでは。。。
しかしまぁ、自分は素人ユーザーであるし、そういった不満の声が(出てこ)ないからこそ既にVer.10.0にもなっているのである。うだうだ言っても詮無き事である。

**  ついでに、気分転換がてらプログラムの引継ぎ作業を始める。4回生の頃から3年間弱、それなりにデータ解析用のプログラムが蓄積されてきており、それを研究室生活引退と共に電子の海に廃棄するのも勿体無い、という話である。余談だが(そもそも全て独り雑談であるが)、先日の日記で触れたマータイさん、時の小泉首相から聞いたこの”勿体無い”という表現がいたく気に入ったそうだ。ふむふむ。






[Friday Mar. 11, 2005] --- A.M.5:40起床 ---

**  ふぅ。なぜか二日連続ため息で一日をスタートさせてみる。…なんでだろうか。微妙な、寂しいような満ち足りたような、なんとも言えない気分である。ちなみに、いきなり話を脱線させると、この”気分”と言うヤツは厄介である。”感情”と対比してみると、それがよく分かる。
つまり、気分というのはそれを抱く本人にも、何故そう思うのか、そう感じるのかが曖昧なまま、しかしその気分だけははっきりと自分の中に存在する、言わば理由無き精神活動、とでも言うべきものである。何となくイライラする、何とはなしにもの悲しい、とか。この、何となく、というのがポイントである。たぶん。
一方で、感情と言うのはもう少しはっきりしたもの、例えば世の中の非道に対して憤慨するだとか、誰かから誉められて嬉しいとか、穴があったら入りたいほど恥ずかしいとか。根拠のはっきりしている―それが誰にとっても合理的な認めうる根拠かどうかはともかく、少なくとも本人にとっては―強い感覚である。
であるから、感情と言うのは何と言うか、それを抱く本人が一体感を持ちやすいというか。自然にそういう感情を受け入れる事が出来るものだと思われる。あぁ、自分はこういうことに対して怒る人間なのだな、とか、こういう人が好きなんだな、と自分を発見する事はあっても、そう感じる事自体には疑問をもつ余地は、普通は無いだろう。
また、根拠が自分にとって明確であるからこそ、その感情を自分で制御することも、原理的には充分可能であると思う。

この制御可能な、こんとろーらぶるな(最近横文字が多い、と怒られたりする)性質を持つ感情と言うものに対して、気分と言うヤツは何故そう感じるのかが容易には分からず、制御し辛い事が多い。なんというか、精神活動を測る何かしらの物理量、たとえば心の温度のようなものがあると仮に考えるなら、”気分”の温度というのは”感情”のそれに対してずっと低いのではないだろうか。ヌルい、しかし確実に何も無い状態と比べると何かしらの活動が脳内で行われている。その結果、何となく嬉しかったり哀しかったりする。しかし、明確な原因は明らかではない。この、もやもやとしたものと言うのが実に厄介である。
何となれば、それは根拠が、原因が分からないから、そう自分が感じる理由、原理が明らかでないからだ。身体の病気もそうだが、原因が分からなければ、根本的な対策が取れない。対症療法を取る以外に、術が無いのだ。
これは同時に、上で感情の所で触れた、自分自身の制御というものに直接効いてくる。”気分”と言うヤツの全体像、何故生まれてどういう過程を経て、自分の中に生じてくるのか。その全体的な理解が出来ないと、それを制御する事も難しい。何と言うか、気分的に(これも気分である)”勝てない”ような気がするのだ。何に勝つのか、と言われれば、自分自身に、だろうか?
まぁしかし、この自分に勝つ、克己心と言うのは、もしかしたら(人によっては)根本的に満たされないものなのかもしれない。
これは、ちょと説明するのがめんどくさくなってきたので、以上のような考察は、山崎正和著
「鴎外 闘う家長」や、同「不機嫌の時代」に詳しい、とreferする事で三十六計逃ぐるに如かず、とする事にする。スタコラっしゅ彡

**  話が逸れ過ぎてしまってアレだが。段落まで変えてしまった。。。
まぁとにかく、冒頭に戻ると、そのような感情未満の気分を抱えているこの頃である。で、その気分を扱う一つの方法として、感情を抱くにおいては疑いもしない、その明確なるはずの根拠を探ってみる事、がある。自己分析というヤツである。
思うに、自分の今の状況と言うのは、修士論文という公のやるべき事が終わった直後に、投稿論文書きと言う、全く自分の自由意志によって行わなければならない作業に1ヶ月以上没頭してきた、というものである。その論文書き作業もいよいよ終盤を迎え―これは時間的制約にもよる、半ば強制的なものでもあるが―、コトの終わりに際して抱きがちな、満足感とも寂寥感ともつかぬ、曖昧模糊とした気分を感じているようである。
まぁ、その気分が実害を及ぼすようならば何らかの対策を考えなければならないが、今はとりあえず暫定的な分析と表面的な理解にとどまる事で充分だろう、という感じである。あまり突き詰めて考えても答えが出ず、却って煩悶する事になる可能性もあるのが、この気分というものを厄介たらしめている一要素でもあるし。

**  そういえば、今週末は大学の後期二次試験である。このセンター試験の次にある、大学個別の前・後期試験体制は来年あたりで終わるそうで、京大(理学部?)は、センター試験と大学独自の試験、の二本柱で行くそうな。ふぅぅん。
しかし、新入生歓迎・勧誘の人々が集っている中を研究室にスタスタ向かっていたのだが、まだ年若そうな(いくつ下だ…あぁ、4つ下のぴちぴち20歳とかいるのか…がっくし)女の子の集団に、新入生ですかぁ〜?などと華やかに尋ねられる。ぐはぁ。。
すんません、もうあと3週間ほどで卒業してしまうのです。。。
とは言わず、にこやかな表情で「ぁ?新入生だ?」などと聞き返したのは言うまでもない。う〜んひどいなぁ。
戯言はともかく、若く見られて喜んでいいのやら、年相応の落ち着き振りを醸してないという事で悲しむべきなのやら、めっきり老け込んでしまいがちなおぢさん的若者にはフクザツな気分であったりー。みたいなー。






[Saturday Mar. 12, 2005] --- A.M.4:20起床 ---

**  げ。起床してラジヲ付けたら、普通に番組やってるし。。。これは、深夜ラジヲの類だろうなぁ…むぅぅ。おはようごじゃりまする。。

論文書きの最終段階に入って、全く今まで考えていなかった論文上の議論を、これは考えなくていいの?とツッコまれる。そこで考えた事で、新たな発見(と思われる)と理解が生じた感がある。詳細は、いつ世に出るのかは不確定だが、論文を参照されたい。しかし何とも実に、コミュニケ―ションというのは創造的な、高度な作業であると思う。
ついでに、そうして言われて初めて深いところまでの議論を考える自分の、(現在の分野の)研究者としての適性も分かった気がする。

高等教育を受けるにつけて、折々感じていた事だが、自分は生粋の理学研究者タイプではない。大学に入る時から物理をやる、と決めていて、専門コースに進む前の学部生の段階にして教授を論破するような、自分のとある友人タイプの人間では明らかにない。
昨年、進路を決める際に就職か進学か、で散々悩んだが、それは言わば目先の将来の選択に悩んだのであり、もっと先の選択肢ははっきりしていた。これから数年どういう道を辿ろうと、その後には一般企業で働いているだろうな、そうあって欲しいな、と思っていたのだ。だから、今このタイミングで就職するのか、それとももう少し専門的なサイエンスの世界に進んでから、なのか、で迷ったのだ。
自分の興味は、恐らく純粋な自然科学系サイエンティストのそれではない。そういう、理論とか、言ってみれば絵空事(この身の回りに広がる色々の現実的な物事に比べれば)を考えるのは嫌いではない。というか、割と好きである。だが、同時に興味の優先順位で言うと、もうすこし現実的な、言い換えれば多分もっと人間に近いモノの方が高いのだ。だから、人間をサイエンスの対象とするような考え方と言うのは、その興味にクリティカルヒットするのである。だったら最初からそういう事をやっていればいいじゃないか、というのは浅薄な考えである。
とさせて下さい。。。
まぁ、最初から正解など分からないし、ベストを求める事も出来ないと思っている。瞬間瞬間に、より良い、ベターな選択肢を追い求めて行く以外に、よりよく生きていく術を残念ながら今の自分は知らないので。。
それに、元々この地球惑星科学の分野を選んだのも、宇宙に関わる事、宇宙開発に関わる事に興味があったからであるし。。
あと、これは特にこれから自分と同じように進路選択で迷うかもしれない方々へのメッセージでもあるが、たとえ自分の興味が最上位のものでないにしても、この分野のサイエンスを学ぶ事、この環境で(何年先まで有効かは微妙だが)研究をする事、というのは非常に価値ある事だと思う。個人的にはそれは、今でさえ思うし、きっと年を取るごとに強く思うようになるのではないか、と予想している。
これは即ち、専攻分野は何であれ、研究と言うものを通じて普遍的なスキルを身に付ける事が出来る、という事である。どんなスキルかと言えば、恐らく一言で言えば、「論理的な思考能力とそれを人に伝える能力」という事であろうか。これ、前者の論理的思考能力というのは常に強調される事であるが、同時に後者の、その思考によって得られた知見を他者に理解してもらう為の能力、というのも非常に大事である。
これはボスとの雑談を含めた研究のディスカッションで教えられた事だが、京都大学の理学部の入試においては、理系でありながら英語・国語の占める比率が他の理系学部、学科に比べてかなり高い(医学部は例外かもしれない)。これにはやはり意味があって、理学部の人間にはサイエンスの真実を追究する高度な専門的能力と共に、それを他者に伝える高度なコミュニケーション能力というものも、その昔から求められているという事だ。
この場合の他者というのは必ずしも専門的な事を全く知らない世間一般の人、ではなくて、単純に自分以外の他人、という意味かと思われる。つまり、研究者同士で”自分の考えていることを相手に理解してもらい、共にディスカッションする”という過程が、サイエンスの進化・深化において必要不可欠であるという思想の表れでもあるのだろう。これはもう少し拡張するならば、より広い意味での他者、例えば世間に対して、国民の税金で実用や経済的利益とは程遠い研究を行う事の意味や意義を説明し理解してもらう責任がある、という事になるかもしれない。
であるから、そういう自分のやっていることにはそれなりに意味があるんだよ、という事を何となく覚えておけば、たとえ将来の選択肢に迷っても、結果的によい決断ができるのではないか、と思っている。というか、そうであって欲しいなぁ…個人的に。。
以上に加えて無論、各人の才能に見合う努力が必要なのは言うまでも無いだろう。
がつんと結論を示せなくて、そういうものを求めている後輩諸氏には大変申し訳ないが、まぁ基本的にへたれなので勘弁して下さい。。

**  まぁ、そんなこんなであっちゅう間の週末である。昨夜はマンションの管理会社から、あんた一体いつ引越しすんねん!日取り決まったら連絡せぇゆうたやろ!と怒られ、すんませんすんません、ちと忙しくてアレです、と誤魔化したりしていた。むぅ、さすがに残り時間が少なくなってきたなぁ。。。
日記を書いていると、こういう少しだけ長い目で見た自分の現在地みたいなもんが把握しやすくて、便利である。
論文書きも何とか仕上げていきたいが、さすがに部屋の整理を始めねばならない早朝の土曜日、京都市の某マンションからお伝えしました。

今日は高校時代からの友人達と、お疲れ&大部分の人の学生生活終末を悼む飲み会。






[Sunday Mar. 13, 2005] --- A.M.6:00起床 ---

**  うむうむ。日曜日である。良きかな良きかな。
昨夜は飲み会だったが、今朝は6時起きである。ちょとゴマンエツである。何故かって、5時とかに起きなかったからである。むしろ、ほっとしたと言うべきなのかも知れぬが。。前にも書いた気がするが、最近は夜更かしするとその日の睡眠が、まるで、まるで、まるで…いい喩えが思い浮かばないので、普通に、なくなってしまう傾向があったので。あまりいじょーな事にならなくて、重畳重畳…何事も過ぎたるは及ばざるが如しである。
などとちっぽけな自己満足に浸りつつ、このWebを弄っていたら…今日は日曜日である。この前の日曜日には、やっぱり飲み会だったのだが、あれから一週間も経ってしまっているのか。。。24x7=168時間である。あ、こう考えるとそんなに経ってない気がしてきたぞ。ぅむぅむ。だいじょぶだいじょぶ。何がかは謎だが。

**  ちなみに昨日は、さすがにそろそろ時間が無くなってきたので、家の中の整理を始めてみた。とりあえず現在家の中にある家財道具をざっとリストアップして、大型のものはサイズを測って、引越しに向けてどこから手を付けるか考えてみる。まぁ、やれる所から、かな。
というわけで、本棚の整理をば。今自分の部屋の本棚には、マンガと文庫本その他のハードカバー等を合わせて、大体300冊強ぐらいの書籍が存在している。これら全てを新環境に移行するのは無理だし、いらない本も多い。ので、取捨選択して200冊ほど古本屋に売り払う事にして処分。しかしこの、不要なモノを整理していく作業というヤツは、実に気持ち良いものである。ちょっと前に、
”「捨てる!」技術”という本が話題になった事があるが(読んだ事は無いが)、なかなかムベなるかな、という感じがする。






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